考えるとは何か

ブログを書くにあたってネタを思いつかないということは初心者には当たり前のことなのであろうか。

 

何を書くべきか調べ事を書いてしまうとパクリになるのではないか。また他のサイトから自分が得た情報を正しく理解して書けるのか。

そうなると何を書いていいのかがわからない。

 

学生ならば「○○について考えましょう」と先生に言われればそれについて考えて作文を書いて発表してといったことで済んでいた。

本の学校教育の弊害なのか、それともそのような力は各家庭、個人で身につけなければいけないのか。

考えるテーマを考えるというのは非常に難しい。

 

ブログを書くということはこのような思考を自分の頭の中から外へと出し保管する作業であると言えるだろう。

PCで言えばバックアップに近いのであろうか。

 

スーパーコンピューターというものが存在する。

非常に高度な計算をとてつもない速さで行うことのできるものだということぐらいと思っている。

しかし調べてみると人間の脳のほうがはるかに高度だということが分かった。

スーパーコンピューターが40分かけて行うことを人間はわずか1秒で行うことができるらしい。

 

思考をアウトプットすることはその時の自分の考えをまた別の時に確認することができるというメリットを生み出す。

考えるテーマについては思えば日常にとても多く潜んでいるのであろう。

 

何気ない風景から感じることやTVから流れる音から思ったこと通勤の途中、上司に叱られている時など考えることができる機会はたくさん溢れているのだろう。

そこに+して知的好奇心、興味、疑問を持つことが大切なのだ。

考えることを放棄することは楽な生活であると同時にもったいないことなのだと思う。

 

昔のパンセという人物は「人間は考える葦である」という言葉を残した。

自然界における人間というものが葦のような弱い植物であると同時に考えることができる存在といった意味である。

こういった人の言葉もその人が考えるだけではこの世に残らない。

考えること、それを外部に放つことで思考が初めてこの世へと生み出される。

 

自分もブログを書くことで思考といったものを外部へと放つことを大事にしていきたい。

FPSゲーム観戦 途中

最近はまっていることの一つにFPSゲームの観戦がある。

APEX legendといってリリース日は

 

面白いのならば自分でしてみたいとも思うのではあるが自分はそこまでのゲーマーでは無いためプロの人のゲームを見ることで解消している。

これはプロスポーツ選手の試合を見るといったことに近いところがあるのだと思う。

 

 

 

ケータイ・スマホと私

自分が携帯電話を持ち始めてから約12年が経過したと思う。

中学を卒業する少し前に初めての携帯電話を買ってもらった。

今ではCDをPCに取り込んですぐに音楽が聴けるがその頃は着うたをサイトで

ダウンロードしていた。

偽サイトが多く、友人とどこのサイトは信頼できるなどと話していた。

またその頃はモバゲーの全盛期であった。毎日のようにミニゲームを遊び

怪盗ロワイヤルなど色々と懐かしい思い出があった。

スマホに変えてからは訪れることもなく放置していた。このブログを書くにあたって

サイトを見ると去年の12月にケータイ版はサービスを終了していた。

これも時代の移り変わりの一つだと思うと感慨深いものもある。

 

スマホに変わってからはPCを触る機会も減ったように思う。

ケータイの3倍以上はあるような画面サイズによりPCでネットを見ることとの差が

ほぼ無くなりPCの役目は一般人にとってはスマホへと移ったと言えるだろう。

 

(書きかけ)

 

好きなものの話

前回のブログで自分の趣味は無いようなことを書いたが今までに楽しんでいたものや

好きなものはもちろんある。

欠点として言えるのは楽しむためだけにそのものに触れただけであったため

自分の知識や熱意にプラスされていないことだ。

まず自分は二次元文化が好きである。ゲーム、漫画、アニメを子供の頃から好き好んでいた。

自分の好きなものの話ではあるが自分でも何が好きなのかそこまでわかっていないのも事実である。

ここで自分が好きな二次元の話を書かせてもらう。

 

ゲームについて

ポケモンデジモンを子供の頃から、ゲームを遊び漫画を読み、アニメを見ていた。

ポケモンについては最近の2作品・今年21年冬に発売のものも含めると3作品はプレイしていないが、YouTubeなどで試合動画を見て最近の動向も把握している。

初期の緑から最後はオメガルビーまでプレイした。

 

 

自分のことを書くのはどうなのか

趣味というのは何なのか。特技というのは何なのか。長所とは。

 

色々なブログを見るとそれはその人の今までの人生が反映されているのだろうと思う。

自分の人生を振り返ると自分のことなのによく分からない

こうしてブログに自分の情けないことを書いているのは果たして何のためなのだろうか

目的を考えると書けない。

自分の思いを書くことでしかブログの更新ができない。

それはブログとしていいのだろうか。良いも悪いも結果なのか。自分が満足すればいいのか。満足とはいったい何なのか。

 

幸いなことに形や結果をきれいにすることにこだわらなければ、文章などというのは支離滅裂なれども無茶苦茶であろうとも成り立つものである。

文章を長くするようにごまかすことも小学生の時の作文のように適当に書いているのが事実である。

 

世に出ている有数のブログやホームページの作者、小説家、新聞記者、文を扱うことは

小学生のころから変わらずしてきたはずなのに何が違うのだろうか。

文章の推敲とは何なのだ。推敲したら文章が全て消えてしまう。

 

ブログを書くことはその人の人生を表すと書いたが自分の人生がよく分かっていない

自分はこれからブログを書くことでわかるのであろうか。

 

吐いてしまった話

もう何度目の失敗であろうか。お酒を飲んで吐くという愚かなことを何故こうも繰り返してしまうのか。

 

そもそも人はなぜアルコールなどというものを生み出してしまったのか。

今となってはコロナの影響でアルコール消毒が周知され医療の分野において大いに効果を発揮していることはわかっている。

 

アルコールに罪はないことはわかっている。

楽しくおいしく飲んでいた。ただ自分が飲める許容量を超えてしまっただけだ。

自分で買ったお酒だからと家族からお酒を求められているのにも関わらず断ってしまった。断った手前自分が全部のむ義務があると思ってしまった。

 

自分の愚かさというものに再度気づかされた。

元々はアルコール度数が高い分、ビールや酎ハイなどの缶を買うよりも

コスパがよくなるだろうと思ってウォッカにしたというのに、度数のことなんて考えずにバカみたいというかバカがただ飲んでいた。

 

これからも吐くことはあるかもしれないしお酒も飲むと思う。

それでもコスパや義務で飲むなんて楽しくないバカな飲み方はせずに

許容量を守って飲んでいきたいものだ。

 

※お酒について調べたサイト

公益社団法人アルコール健康医学協会

 

 

三日坊主の由来とは

三日坊主 あきっぽくて、長続きがしない人。

9月に書いていたこともすっかり忘れて
新しく作ろうとしたらグーグルにしっかり残っていてログインできた。


書くようなネタも無く、モチベーションも上がらなかった。

三日坊主にはならないようにと思っていたが
完全に三日坊主である。

この三日坊主の由来はお坊さんが寺に入ったものの厳しい修行に耐えきれずに辞めたことから来ているそうだ。

あえて良い意味で捉えると3日間修行することで
自分には坊主になるのは無理だと理解した。
変な意味ではあるが悟りを開いたと言えるのではないだろうか。

坊主というのはお寺の偉い人と言う意味である。
しかし坊主というと坊主頭のことが思い出されそこから何も無いことを意味して魚が釣れない時にもボウズと言ったりする。

坊主丸儲けとも言うように坊主になれば一般の人よりはお金の面でゆとりができる。
それは昔からも変わらないのであろう。
故に坊主と言うものに対して昔から現代でも尊敬の意はそこまで込められていないのだろう。

継続は力なりとよく言うが、三日坊主であっても次々と他の事に手を出せるのならばそれも一つの答えではないだろうか。

今回は自分の失敗からネタにして書けた訳だが、
他にも書けるようにして行きたいものだ。